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∥観相術は経験法則による判断学∥
●顔が人間のすべてを物語る
「顔は精神の門にして、その肖像なり」と、古代ローマの政治家、哲学者のキケロは喝破した。現代に生きる私たち人間も同様に、顔によって人を見分け、精神のあり方や、人となり、心の内側までも推し量る。顔は、彼や彼女の氏や育ち、生き方、性格、教養、職業などから、喜怒哀楽まですべてを表す。
その人間を集約する個所だから、顔は肉体の中でもその人を代表する大事な部分といえる。「相手の顔を立てる」、「人の顔に泥を塗る」、「世間に顔が広い」などという。顔は、社会に向けられたその人間の存在なのである。
この点、「あなたは初対面の人の顔を見て、相手の性格を見抜くことができるか」とアンケートで聞いてみると、三十代までの人に比べて、四十代以上の人の肯定的な回答が目立つものである。人間は年齢と経験の積み重ねで、他人を見抜けるようになるわけだ。若い人にしても、相手の性格まではっきり見抜けなくても、一目で「この人は金持ちらしい」とか、「あの人は貧乏に違いない」などと、常識的にわかる一面があるはずである。
私にいわせれば、顔の人相、相貌は、その人の現在を物語るばかりか、その人が先祖から受け継いだ先天的なものを表し、将来の運命さえも物語るものである。人相、相貌で長寿か否かもわかる。すべてのものは、姿、形から実質を判断でき、インスピレーションで推理もできるからである。宇宙天地大自然世界には、姿、形に関係ないものは一つとしてない。
人間の姿、形、すなわち容貌、骨格などから性質、運命、吉凶を専門的に判断することを観相、観相術、人相、人相学などという。中国伝来のこの観相術は、一方で「当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦」といわれながら、時の宰相が足を運んだ観相家もいたほどである。
また、かつて某大学で県下の易者グループの協力のもとに、人相と手相の的中度を調査したところ、人相は被鑑定者の性格や経歴との一致率が高いのに比して、手相ははなはだ低いという興味深い結果が出た。
こうした観相術の領域に踏み込んでみたい。本書で述べる観相術、人相学は、自然科学のようなものであり、知ると必ず得をするはずであるし、知っていると自分の生き方も楽になるはずのものである。
●毎日の心構えが天来の人相を変える
人間個人に備わった人相は、天来のもの、先祖伝来のもの、一生のものである。だから、今、こういう人相を持った自分には本来、先祖といった前提があるもので、過去からのすべてのものの集合が自分であり、永遠の中に生きる自分であるということを、まず大いに自覚してもらいたいもの。
次に、顔形(かおかたち)そのものは親から受け継いだものだから、本人に責任はないかもしれないにしろ、年頃すぎたら顔は自分が作るものといわれるように、やはり顔に表れる品格や教養は本人の責任であるということを、自覚してもらいたいものだ。
よく「人品卑しからぬ」とか、「一癖ある顔」などという。両極端だが、どちらも顔に表れたその人間の生き様だ。骨相が遺伝的なものなら、人相の半分は後天的なものといえるだろう。
つまり、天来の人相には動かしようがないという一面があるにしろ、毎日の心構えで変えようもあることも知ってもらいたい。
心構え、あるいは観念などという意識は、それだけでは抽象的で実体のない自己満足のようなものであるが、この観念の持ち方いかんでは、人間の一生を左右するほどの力を持っていることさえある。
毎日毎日、同じ思いを心の中に持ち続けていると、文字通り身も心も、その思いの通りになるもの。その思いを固く観念として維持しておれば、それは自然にその人の人相を形作り、その人の表情を操作し、その人の発する言葉の端々にまで反映されてくるものである。
心の中の想像はそのまま、精神の肖像たる顔の創造につながる。一日一日の自分の意識の集積が、自らの人相を形作ってゆく。
とりわけ、四十歳以後の風貌は、本人自身の後天的な責任にある。「男子は四十歳になったら自分の顔に責任を持て」とは、世間でしばしば交わされる言葉で、もはや不惑は、親がどうの、仕事の上の人間関係がどうの、女房や隣人がどうのといって責任転嫁をしてお茶を濁せる年ではない。
大学卒なら学窓を出て二十年近い四十歳代には、誰もが人生の年輪が顔に刻まれ、修養や勉学の深浅、苦労の多寡などが自然と表れるのが必然。
だから、中年世代になると、久々のクラス会などで、旧知の同級生がまるで別人みたいに変わっていて、驚くことが少なくないはずである。
例えば、学生時代には「ガマ」のニックネームが付けられ、醜男(ぶおとこ)の代表格と見なされたAという人物が、基礎科学の研究に専念し、四十代を迎えた時にはその道の権威者の一人になって、その顔は英知に輝き、アンバランスな目鼻立ちは一種独特の、重厚な風格をたたえている、というような場合がある。
社会で磨かれて、四十すぎると立派な人間性を形成し、顔や姿に人格の輝きが表れるという人は、けっこう見掛けるはずだ。
片や、クラスの中でも眉目(びもく)秀麗で名高かったBという男が、女性問題でつまずき、事業も失敗を重ね、いつも暗い、さえない表情をたたえ、実際より十年も老け込んだ顔をしている、というような場合もある。
ただ老けた、おやじ臭くなっただけではすまされない人相の変容も、わりあい見掛けるはずだ。不細工でもいい、せめていい人相になりたいと思うのが人間自然の人情というものではあっても、世の中には、結婚生活に失敗したり、性生活を乱暴、狂態にし、それが悪癖、悪運命となって、三十から人間の不幸が目立ってくるという人も、けっこう存在するのである。
●顔に表れる良相、福相、悪相、貧相
人間の顔は、年を取るにつれて変わる。誰しも免れ得ない事実であるが、その変わり方は、単に老化するだけではなく、いい変わり方をする場合と、悪い変わり方をする場合があるのだ。なぜ、変わり方に相違があるのか。顔にできるシワという面から考えてみよう。
人間は年齢を重ねていくと、必然的に筋肉が衰えるにつれて、顔がだらけてしまう。目尻(めじり)や口元も下がって、そのままでは顔面の縦方向にシワが出るものである。とはいえど、自分の仕事を一生懸命やっているような人、特に上に立って部下たちを指導し、叱咤(しった)している人などは、顔に張りがあるもの。叱咤したり、命令したりすると、顔のシワが横に引っ張られるため、シワが横に出るようになるのである。
だから、人相学的にいうと、縦ジワが多い顔は悪い顔、横ジワが多いのはいい顔ということがいえる。何事か打ち込むものを持って、張りのある生き方をしている人間は、いい顔、良相、福相になるのが当然で、縦ジワよりも横ジワが目立つ顔をしているのは、彼らの人生が充実していることの証拠といえよう。
一方、げっそりやせて、頬がこけた顔は、いくら健康でも、周囲からは貧相に見られてしまう。また、眉間(みけん)に深い縦ジワを寄せている顔も、何か陰険そうで、いい顔とはとても思われない。
一生を懸ける生きがいもなく、これといった熱意も持たず、のんべんだらりと、酔生夢死といった有り様で生きている彼や、心配事や悩みが尽きない、暗い生き方をしている彼女は、貧相、悪相になる傾向が強い。
そもそも、人間というものは、先天的な、生まれついての顔をベースにしているわけである。感情を乱すこともなく、平常心を保って生きてきた人は、そのままの顔が習慣化して定着するだろう。ところが、いつも顔をしかめて、「困った」といっているような人は、眉間にシワが寄ったりして、困った表情が定着する。
このように、長年にわたる習慣的表情は、人の顔のあり方を次第に変えていくものなのだ。
日頃の生活が人の顔を作るとは、心理学的にもいえること。プラス志向で暮らしていれば、顔にも活力があふれてくる。そういう人は周囲にも好かれるようになるので、ますます活気に満ちた生活を送れるようになる。その結果、いい表情が定着する好循環が生まれて、いよいよ素晴らしい顔になっていくというわけである。
そういう張りのある生き方をしている人に、自然にできる顔のシワは、浅くて、美しいものである。反対に、シワなどはそうやたらにできるものではないのに、何か大きな心配事でもあった人は、心の圧力によってシワができるもので、圧力でできたシワは非常に深く、醜い。
結局、人相学でいういい顔になることとは、年を取るにつれて横ジワが出てくること、しかも浅いシワが自然に出てくることである。それとともに、太り顔になることもある。やせて、頬骨が出てくると、人間は残忍な顔になってしまいかねないが、太り顔はいわゆる福々しい顔ということで、豊かな生活をしているとか、悪いことはしないというように思われる。中年太りを気にしている人にとって、人相学的には太ることもまんざら悪いことではないとは、少しうれしい話ではなかろうか。
●観相術は経験法則による判断学
しかしながら、従来の観相術、人相学はあまりにも、仏様の顔であり、エビス、ダイコク様の顔に近い、肉が厚く、丸みを持った福々しい顔を福相そのものと規定しすぎた傾向があるのは否めない。
理由の一つには、成功者の晩年の満ち足りた顔貌をもって、福相の基準としたせいもある。つまり、美食と自己満足のゆとりが作り上げた福々しい顔は、成功したという結果がもたらした変化にすぎないのに、多くの観相家が陥ったワナであり、単純に考えれば肥満タイプはことごとく福相ということになりかねない。
もっとも、昔の時代にあっては、腹いっぱい食べることは金持ちにしか許されないぜいたくであった。太り顔が福相とは、ある程度、事実に近かったかもしれない。ところが、一般庶民でも飽食、美食が普通になった現代では、むしろ不用心に太りすぎた人は自らの健康管理すらできない者と見なされ、スマートさを保つことこそが成功者の証明であるとさえいわれ出している。
この際、あまりにも類型的で通俗的な、福々しい顔が福相で、やせこけた顔が貧相という考えに、こだわりすぎないほうがよいだろう。歴史が証明するように、いわゆる貧相で大富豪になった人もいるし、逆に、世にいう福相で貧乏な人も多い。
観相術は本来、客観的に科学的な証明が可能なものではない。むしろ、膨大な数の観察経験を集積し、その中からタイプごとの共通項を見つけ出していく経験法則による判断学である。
人間の顔の観察を集積し、分析していくと、共通タイプの人は、共通の資質や性格を持つことが次第にわかってくる。もちろん、共通のタイプはすべて共通の資質、性格ばかりというわけではなく、共通のタイプの人でも、あったりなかったりするものはある。その中で、百人のうち九十九人までは必ず備えているという特別に濃厚な資質、性格が鮮明に浮かび上がってくるもので、多数の観察結果を帰納して出てきた法則こそが、必然といえる特徴といえるのである。
本サイトでは、人間の顔の型、目鼻立ちといった基本的形状のタイプから、人間の資質判断や性格判断に役立つ、最も根源的な意味を持つシグナルだけを紹介することにする。
それらは、私の長い間の観察と研究の結果、導き出された経験法則であり、科学的証明ではない。だが、これこそ、人間を判断し、知るための基本的なものであることは、読み進むうちに次第に納得してもらえるはずである。
皆さんは、私が述べる判断ポイントに従って、自分、あるいは恋人、友人、上役、部下などのチェックを行い、人生のいろいろな面で役立ててもらいたい。本当に人間を見抜くあなた自身の見識となれば、より幸いである。
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