健康創造塾 生き方 健康創造塾 生き方 健康創造塾 生き方 健康創造塾 生き方

 

‖ともに生き、ともに生かす‖

 悟った人、融通無碍の人と違って、一般の多くの人は、毎日をあれこれと思い煩いながら、精いっぱい自分の力だけで生きていると思い込んでいる。だが、それは錯覚であって、事実は他の力によって生かされているのである。

 誰でも、自分が生まれようとして、生まれてきたのではない。自分が犬や猫や、また、牛や馬でもなく生まれてきたのは、偶然であろうか。いったい誰が、人間を人間に仕立て、世の中に送り出したのだろうか。

 創造主は宇宙である、と答えよう。もともと人間は、自分の意思や力によって、生まれることはできない。宇宙すなわち大自然の原理によって、生まれることができたのである。  

 宇宙の最初は、すべて偶然的存在であったかもしれない。偶然の続くうちに、当然だけが残り、自然が形成され、必然となってきた。その中から知恵と力とが発生して、進化、発達、繁栄という形がなってきて、私たち人間が登場した。

 人間というものは、その生成をも踏まえて、「かくあるものであって、かくあるべきもの」というように、存在と当為まで考えを究めてゆくと、宇宙性に連なって、宇宙に総合されるのである。

 すなわち、人間は宇宙天地大自然によって創られたものであるから、宇宙によって生かされることは当然である。人間がここに在ることこそ「生かされている」ということで、生かしている大きな力が他力なのである。 

 人間の真相を知ろうとする人は、まず人間を創り、人間を生かしている宇宙を知れ、大自然世界の巧妙至極な構造と機能を知れ。

 大宇宙は、生きている。そして、すべてを生かしている。この無限大で、がらんどうで、静寂な世界の中で、大変な積極性、絶対力で万物を回転させているのである。 

 積極と消極が同じもの、この絶対の中から相対物が発生して、相対物ながらみな絶対的に生きている。大も小も、個々も全体も、秩序正しく、整然としていささかの乱れもない。それが自然なのである。

 人間を始めとして万物を差別のままに平等に生かし、育てている宇宙生命の無為当然の力こそ、神とたたえたくなるのである。

 私たちを生かしている、私たちが生かされている宇宙的な他力に、大部分の人は気付かない。他力がどういうものかも知らず、もっぱら自分の力のみで生きていると思っている。表面的に「自分一人では生きられない」などと発言しても、この他力の存在がどのくらい大きいかがわからない。 

 自分の力で生きること―――これを自力と呼ぼうか。「俺が俺が」、「私が私が」という人に、常に働いているのが自力である。「自分の力だけで生きている」と思っても、例えていうならばただの意識の塊で生きているのであって、その意識が人間のエゴイズムとなって表出するから、平気でうそをついたり、周囲の人を憎んだり、わがまま勝手な行動をしたりする。 

 そういう他力とつながらない自力の生かし方をする人は、天地の血の通わない人、愛情の行き来しない人、大自然の美しさと人情の美しさに素直になれない人でもある。

 自力と他力とは調和できるのが自然で、調和できないのは自意識が強すぎ、我が強すぎるからだ。本当に自力を生かす者は、我が強くては駄目である。

 我の強い者は、依怙地(いこじ)である。他と調和するには、我に執着しすぎる。自分を生かすためには、他をやっつけることを辞さない。素直になり切れない。

 「自分さえよければいい」は、実は一番本人のためにならないのだが、今の競争社会では、引っ込んでばかりいると生活ができない。どうしても、がむしゃらにならないと生きてゆけない面が見受けられる。

 例えば朝夕の満員電車に乗り込むようなもので、他人に譲ってばかりいては、自分の約束も守れないし、自分の義務も果たせないということになる。どうしても、ある程度は他人を押しのけて、自分を生かす必要がある。

 だから、この時代に生きてゆくには、時に我の強い者が得をするのは事実で、人がよすぎては社会的敗残者にならないわけにはいかない。他人に譲ってばかりいては生活できないから、相当の我がなければならない。 

 しかし、我が弱すぎるのも困るが、強すぎるのも困る。当人も困るが、周囲がなお困る。はたから反感を持たれた当人は、ついひねくれることになる。

 何事も程度問題で、我が強すぎて、他のことはわからないという人がいる。そこまではゆかない人でも、自力ばかりを頼って、自分の世界に入り込み、他の世界を拒絶する傾向の人がいる。彼らは、自力で何でも解決できると思う。その結果、自力以外を信ぜず、他力の世界を認めなくなる。

 諸行無常。人生は、順調な時ばかりではない。いざという時には、人間は自力だけでは救われないもので、人間が自己を救おうと思う際には、他力によらなければならない。

 最も簡単な他力である他人の助力についてみても、周囲から嫌われる人、信用されない人、愛想をつかされる人などは、幸福にはなれない。反対に、多くの人から好かれること、信用されることは幸せであり、生きる喜びを得られる。

 やはり、人間はともに生き、ともに生かし合うことが必要なのである。

 例えば、あの太陽が燃えているのは、太陽単独で燃えているのではなく、周囲の作用で水素やリチウムなどの核融合反応を起こして燃焼しているのである。宇宙に存在するすべてのものは、何一つ独立し、孤立して存在しているものではなく、互いに相関し助け合って、全宇宙の中のものとして、宇宙と一体で現象しているのである。

 この宇宙の全体性原理は、そのまま世の中の動きも、互いに相関し合っているもので、その相関する力なしには、存在も現象もあり得ないものだ、ということを示している。

 人間は各人別々に、自と他とを区別し、自分と他人とを区別するが、区別は同時に関係するということであるから、この関係を生かし、ともに生きること、互いに生かし合うことが、宇宙の原理に従うわけである。

 宇宙には何一つ同じものはなく、人間にしても決して同じ人間は二人といないのである。

 私たち人間には、すべて長所があり短所もあるもので、万人が性格を異にしているが、実は、人間相互の長短と差異が、お互いに引き合う力となるのである。  

 しかも、ともに生かし合うことのできる能力を、人間は備えている。このことをお互いに心して、生かし合いたいものである。

 従って、あまりにエゴイストは、かえってエゴイストではない。「利己主義だ」と見なされて他人に嫌われ、愛想をつかされたならば、自分が損をするに違いないからである。物質的にも、精神的にも、他人に嫌われて得をするわけはない。

 しかし、そんなことを考える余裕もないほど、利欲心の強い人は存在する。そういう彼や彼女が不幸になる時、「自業自得だ」といわれるのも致し方ないところである。

   

ホームへ戻ります 生かされ生きるのトップへ戻ります ページのトップへ戻ります

ホームへ戻ります 生かされ生きるのトップへ戻ります ページのトップへ戻ります


Copyright 2003〜 kenkosozojuku Japan, Inc. All rights reserved.