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‖他力とつながる自力‖

 ここで改めて「他力」という言葉を問うと、他力宗だとか、他力本願だとか、仏教方面でよくいわれる言葉である。これは、自分というものを主に考えて「自力」というものを立てた場合に、自然に生まれてくる自力に対する他力であり、物事を相対的に考えたところから生まれる、自力であり、他力である。

 ところが、相対の世界を超えて見ると、仏教ならばすべて仏力ということになって、自力もなく、他力ということもなく、自力というものがあるのも仏の力、生かしておる力も仏の力、すべてが仏の力となる。 

 これが神様を中心にすると、すべてが神の力だとなる。さらに、これを宇宙天地大自然という立場から考えると、他力はすなわち天の力、万物を生かしている本源の力といってよいと思う。 

 つまり、他力とは文字通り、他の力、自分の力ではない力ということで、自己の周囲の力、大きくいうと、大自然の力、宇宙の全体の力、あるいは、人間を生かしている力といってもよいだろう。

 むしろ、他力というのは、人間以上のものの大きな力を指す場合が多いだろう。大きな力を宇宙の力とか、大自然の意思とか、神の意思とかいっているのだが、人間以上の力に素直になって、そこから精神的な力を得る場合、他力を感じるのである。 

 自分の利害を離れて、私たちは何かの力とか、何かの意思に支配されて生きている。その何かの力を、他力と称するのである。他力本願というのも、その力に素直になり切って、自己を生かすことである。

 宇宙的な力だけでなく、世の中の人々の周囲の力も、また他力と考えてよい。他人の助力なしに人間が生きてゆけないのは、事実である。他力を無視して生活できないのも、事実である。要は、他力をよりよく自力につなげることが、大切なのである。 

 自力と他力の関係について考えてみると、他力を無視できないと同時に、自力を軽蔑するのも人間らしくないことと思われる。まず自力は自力として正当に認めて、その上で他力を認めるべきであろう。

 小さいといえども、自力を無視して人類の進歩は望めない。いくら他力本願といっても、怠けていいということでは決してなく、それぞれ自分の務めを果たすべきである。

 農夫が野菜を栽培するに際して、他力に任せて安心し、怠けていたとしたら、畑には雑草が繁茂するであろう。「いい野菜を作りたい」という情熱があれば、おのずと野菜がよく生長するように心掛け、骨折り、他力も加勢して、よき野菜が収穫できるように尽力するであろう。

 ともかく、私たち人間に自力が与えられている以上、自力を軽視すべきではない。有史以前から、時に見当違いはあったにしても、人類が今日まで進んでこれたのは、人々が自力を極度に生かしてきたからである。

 人類の進歩、文化の向上、生活の発展、みな自力を生かした人々の効果の現れで、人間が人間らしく生活ができるのは、自力のお陰である。

 ならば、「自力さえあれば、何でもできるか」といえば、当然、間違いである。杉は、いくら伸びても天には届かない。人間も、いくら自力を極度に生かしても、万能にはなれないし、不老不死も不可能。人生の無常は、いくら自力を信憑(しんぴょう)する人も、認めなければならない。

 そこで、自力をよく生かした者は尊敬されねばならないが、ただ自力ばかりを頼って、他力を否定し、人間に人間以上のものを求める者には反対しなければならない。ことに自己に寛大で、他人に厳格すぎる者は反省されねばならない。

 また、人間が救われるのは自力ではなく、他力であるということも事実で、人間の自力には自分の生命を肯定する力はない。自分の生命を肯定する力は、自分以上のものにあると思われる。

 「苦しい時の神頼み」も事実で、人は得意の絶頂では、自力で満足する。そういう彼や彼女が一朝、失意して、自力の頼りにならないことを知ると、他力にすがり付くのは、当然のことである。苦しい時、困った時に神を頼み、自力を他力に振り替えると、ひとときしのげる。

 非常の時でなくても、祈りの対象となる神仏とか、信奉できる教理というような他力を得て日常生活を送るほうが、人間は一般に雑念、妄想も少なく、すっきりと、力強く生きられるもの。

 結局、自力を重んじることは他力を無視することであってはならないし、他力を重んじる者も、自力を軽視することはよくないということである。

 自力は、他力に素直な自力でなければならないし、他力を無視した自力も私たち人間を一時的には元気にしてくれようが、自力のみで人生を肯定することは難しい。

 何より私たちは、自力の境と他力のつながりをよく知って、他力とつながる方法で自力を生かすことで、自分の生命を肯定できるのだ。 

 この境に入って、自力は即他力であり得る。そういう生活ができる人が、悟った人といえる。日常座臥において、他力とつながる自力を生かす。そういう人を、融通無碍の人といえるのである。 

 

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