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∥生涯現役を過ごす気構え2∥

 

●百歳人の意欲と行動を見習う

 しかも、家庭が核家族化して、若者が自分たちの巣作りだけしか考えないという利己主義の傾向が強まれば、老人はいきおい自らの力で老後を生き抜く設計をしなければならない。

 総理府の世論調査では、資産は「老後の生活のために活用する」六十四パーセント、「子供たちのために残す」十八パーセントと、子供たちに頼れず自力で生きていこうとする老後への不安を、如実に表していた。

 また、国家、社会から見れば、高齢化社会が進行すると、老人を活用しなければ、社会の活動が停滞してしまうことになる。

 老人も国家の一員、家族の一員。老人でなければ気のつかぬこともある。老人は社会からの敬愛のもとに、自立と生きがいを見いださなければならない。

 活力ある高齢化社会を作るには、これを維持する壮年、青年、若年層がいかに老人をサポートするかが重要である。これから急増する福祉費用を誰が負担するかという経済的問題もさることながら、社会の一員としての老人の力をどう発揮させるか、老人の心をどう理解するかも問題であろう。

 生涯にわたって社会の一員であることは、老人自身が自覚すべきことでもある。「国家から経済援助を受けたら、それで我が老年期に悔いなし」、などと考えている老人がいるとしたら、何と哀れな老人であることか。

 人生五十年時代から、わずかの間に八十年時代に飛んでしまって、これからまだ、老齢化時代が進むと思われる。長生きするようになったのは結構だが、その反面に、大きなマイナスが出てくるだろう。

 厚生省も生活白書でその問題に触れているが、もっとよりよい生活をしたいと思う人は、受益者負担というような形で負担してもらいたいという。これはもっともなこと。老人の側も、甘えてばかりはおれない。自主独立の精神をもって進まなければならない、とつくづく感じられる。

 総理府の調査では、これから高齢期を迎える人のうち七十二パーセントが、還暦をすぎても働きたいと考えているという。大部分は、六十五歳から七十歳くらいまでは働きたいという意識を持っているようだ。意識の上だけでなく、もっとしっかり、自主独立、生きているうちは働くという思想を人間の価値、光栄として自覚せねばならない。

 「人の世話にならない」と心に決めることが、自己を死ぬまで働くという意欲に駆り立てる手段である。

 平成三年の敬老の日を迎えた百歳人は三千六百二十五人で、前年より三百二十七人増えて、最高記録を更新した。この百歳人に対する日本百歳会の生活調査アンケートを見ると、人間にとって働くことがどんなに大切であるか、ということがよくわかる。

 六十代、七十代で働くことをやめてしまう人が多い中で、八十、九十代になっても、職業および家事手伝いで、元気で働き続けたという人が予想外に多く、働くこと、体を動かしていることが健康法であるということを雄弁に物語っている。さらに、百歳の今でもなお、職業として働いている人が何人もいるのは驚きである。

 送られてきた写真によって、男ならば鍬(くわ)を振るったり竹細工をしたり、女ならば草取りをしたり縫い物をしたりしている元気な姿がうかがわれる。

 そもそも、長寿の里と呼ばれる地方は、外国でも国内でも、若い時から急斜面で畑を耕し、重い荷を担いで上り下りするような労働と、殻菜食を中心とする自然食を摂取する村に多く見られるのである。

 百歳人を見習って誰もが、自分を老人だと決めつける自意識や被害者意識みたいなものを捨てて、積極的に社会の中へ出て、何かの社会活動に参加する意欲と行動が、病気なども吹き飛ばすものではないか。

 特に老人というものを意識することが、おかしいのである。精神は年を取っても弱まるどころか、逆に年とともに磨かれ、純化される。人間の才能も、年齢とともに熟成する。才と歳とは年とともに成長して長老になる。健と幸とは自分のこと、献と功とは国や社会に対するもの、六十歳をすぎれば自己をささげて国家、社会に尽くす。これが人間の価値である。

●新しい「気」が動き出す時

 人間は、健康で働く仕事を持ち、その仕事に打ち込めるならば幸福である。若い頃だけでなく、老後でも生涯現役として、元気な限りは何かできるのである。

 人間はいくら年を取っても、適当に働き続けていなくてはいけない。コーカサスやフンザなどという世界の長寿地帯では、百歳をとうに超えた老人たちが元気で、野良仕事に精を出している。意識は棚上げにして、せいぜい体を使うことが長寿の秘訣であることがわかる。

 日本でも、今では、対象をシルバー世代に絞った求人情報紙が発行されているから、定年を迎えた人は再就職口を見つけやすくなっただろう。

 老人になっても、楽しみながら毎日の仕事をしていると、人間も向上するし、自分の生命そのものにも張りが出て、常に若々しく新しい道を求めてゆくことができる。若者のように、新しい芽を吹かせることもできるのである。

 現役で会社を経営したり、勤めている人は、バリバリやればいい。新しく商売を始めるシルバー企業家を目指すのもいい。かつての豊かな経験や一芸を生かせる人は、技術コンサルタント、経営コンサルタント、趣味教室の講師などを務めてはどうだろうか。

 また、ゴルフやテニスや山登りなどのスポーツで、体を鍛え直すのもいいだろう。改めて万巻の読書に取り組むのもいい。語学を勉強して、年に一回は世界を見て歩くのも結構だ。墨絵、粘土細工、男の料理などの稽古事、釣り、囲碁将棋、古典や植物の研究、何でもよい。学習することも立派な労働である。

 アメリカでは、六十五歳でタイプを習い、七十七歳から自動車の運転を始め、八十八歳の時にアマゾン川探険に出掛け、九十九歳で農地の開拓を始めたというスーパー・オールド・レディもいる。世の中には、老いてなお、新しいことを始める情熱を燃やし続けている人々も少なくはないのである。

 人間は、年を取っても絶えず成長、発展を続けている。いくつになってからでも、物事を習えば上達する。何事によらず、新しく稽古事を始めると、新しい「気」というものが動き出すものである。

 そういう力は年を取ってからかえって豊かになるものであるから、若い者にはできないようなことを見事にやってのけたりする。本人としても、若い頃にはできなかったようなことができるようになる。

 誰もが年寄りになったら、何か好きなことを選んで、新しく物事を習い始めるのがよい。それは老後の大きな慰めになるし、老化を防ぐためにもよい方法となる。それを、長年の習性のままに同じような生活をしていたのでは、死に至るまで、いかにもその人らしい、その人だけの実りをなさずに終わってしまう。

 年を取って、もう力も出ない、何に対しても興味が湧かないという人は、とにかく何か変わったことをやってみることだ。生きる上に楽しく、新しい意欲を生み出すために役立つということにもなり得る。それによって、生きようという心や気力を盛んならしめるだけでも、大したものではないか。

 カルチャーセンターや教養講座は、今や社会に定着した感があるから、ここで学習意欲を燃やすのもいいだろう。知識は、商品のように金で買うことはできない。だからこそ、学びの日々、自己啓発の日々の中に人間の価値、喜び、楽しさ、幸福というものが実現されてくるのである。物事を知るということは楽しい。勉強は面白いものである。

 「八十の手習い」などというし、孔子は「朝(あした)に道を聞けば夕べに死すとも可なり」といっているではないか。学ぶに年齢の制限はないのである。

 今日覚えたことは、今日の楽しさとなる。明日もまた、何かを覚えよう。明後日もまた、新しい知識を得、能力を進めて楽しく生きよう。

 こうした毎日を生きれば、人間百歳まで踊りを忘れずで、年を取ってボケたとか、衰えたということはないはずである。

●進んで社会生活に参加する

 あるいは、自然に触れて、自然の芸術を大いに味わうこともよい。盆栽いじりや、美術品、骨董品を味わって暮らすのもよいであろう。ボランティア活動などで、体に蓄積された体験、経験をもって、世の中にお返しをするのもよい。

 ボランティア活動についていえば、昭和五十五年、八十歳を超す二人の日本女性が、タイで緑化運動に奉仕したことがあった。「苗木一本の国際協力」を呼びかけたアジア太平洋緑化運動に賛同し、若者とともに植林作業をしたのである。一人はタイで青春時代を

ごした、当時現役の産婦人科医、もう一人は元市会議員のおばあちゃん。二人とも職業婦人として活躍を続けた、立派な経歴を持っていた。

 それにしても、このシルバー・パワーの心意気には、その当時八十三歳で大いに奮闘努力していた私も、頭が下がったものである。八十歳の老人というと、世間並みには過去に生きる人と思いがちだが、本当に体を鍛えてある人間は、八十歳になっても、心身ともに若者なのである。

 シルバー・パワー部隊が、各自の人生経験を生かして明日の社会造りを真剣に考えたなら、世の中もずいぶんと住みよくなるのではないか。頑迷固陋(ころう)などと疎んじられている老人は、心身の鍛錬が不足しているのである。

 高齢者になる、年を取るということと、〃老い〃とは違うはずだ。四十歳で老け込む人だっている。

 老いとは自覚でしかない。そんな自覚は捨て去るべきだし、周囲が敬老などと、お客さんに祭り上げて老いに追いやるのは、もってのほかだ。まして、「それが死への前段階だ」などと考えて落ち込むことは、自らを愚かにするもの。「今こそ人生の花盛りだ」といった、おおらかな意識を持つがいい。百歳でタバコ屋の看板娘を気取っている、元気なおばあちゃんもいるのである。

 自分を老人だと決め込む自意識や被害者意識みたいなものを捨てて、積極的に社会の中へ出て、寝たきり老人の話し相手のボランティア活動など、何かの社会活動に参加する意欲と行動が、病気など吹き飛ばすものではないか。

 現在では、テレビや映画のわきを支えるエキストラの世界に、定年退職者が急増しているというから、ある時は戦国時代の武将、ある時は大会社の社長を演じてみるのもよいだろう。

 老化しないためには、こうした場をどんどん利用して、積極的に生きることである。つまり、何かに挑戦するとか、新しい人と接するとか、前向きに考えることが大切になるのである。しかも、自分のやっていることが、人のためになっているという実感があるほど若々しくなる。だから、持てる生命力を、人のためにフルに使えるようなものをつかむことが、高齢化社会を生き抜く秘訣ではないだろうか。

 また、老齢になっても社会生活に参加していれば、知的発達があり、進歩するもので、隠居などすると脳の退化が早い。

 老人は進んで社会生活に参加せよ。頭を働かせろ。中年時代に新しい経験を積んだ人は、老人になっても頭が切れるものだ。

 とりわけ、今や六十五歳以上の人口の一割を超す独居老人には、進んで社会生活に参加することによって、高齢社会という言葉を明るいイメージに転化してもらいたいもの。これは、社会の活性化のためにぜひとも必要なことである。

 

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