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∥生涯現役を過ごす気構え1∥
●定年後を生きる人生ビル造り
私にいわせれば、人間は定年退職して、はじめて解放された新しい自分を発見し、人間完成を目指す時期に到達するといえるのである。
人間生命の基礎、根本が守られていれば、六十歳で定年になり、さらに社会に貢献しようという時には、家庭は一人前の城となっている、子供も立派に成人しているというような生活にしたいものである。六十歳にして悠々自適の人生を折り返す、これが人生の理想である。
実は、この六十歳からが、生涯現役の社会人としての、素晴らしい働きの始まる時代となるのである。政治によし、社会的組織によし、協会とか団体の役員になることも自由。あるいは独立独歩の研究所や事業の経営をやることも結構である。自分で起こした事業で成功すれば、サラリーマン時代には得られなかった精神的充実感が持てるだろう。
趣味に合わせての、よい稽古事もある。「八十の手習い」というが、新しく習い事を始めると、新しい「気」が動き出すもの。誰もが六十歳になった時から、新しいものを始められる闘争心と、気力と、体力を持てる人間になれれば素晴らしいではないか。
いずれにしても、人生六十年の経験、体験を持つ人は、人類にとって貴重な存在となるであろう。
誰もが六十歳という年齢から先は、人間個人の完成を遂げながら、立派に有終の美をなしてゆく時代であるから、いい加減にもうろくなどしてしまってはいけない。人生の秋、九十歳までは、刈り入れの盛んな時、働いたもの、蓄積してきたものがいよいよ実って、自分の幸福に寄与する時代である。
さらに、その収穫をもって、百歳、百二十歳まで豊かに生き抜く人生の冬。この時代は、全く精神一色、肉体は若干衰えをきたしても、精神、心、生命の内容はいよいよさえ、〃人こそ神〃という最高の理想像にも達することができる時である。
日進月歩どころか日進日歩で、一日一日、新しい年輪を広げてゆき、大きくしていって、一年間に三百六十五輪、成長しているのである。
こういう人間の一生を人生ビルに例えてみれば、一年に三百六十五室、そこにいろいろな人生体験が蓄えられる。そして、人生百年ともなれば、百階建ての立派な人生ビルが完成するであろう。
機械や建物などには設計書がある。取り扱い説明書がある。これに比べて、人生ビルには設計書がない。筋書きも完成されていない。不完全な人生の脚本は、昔からいろいろと著述されているが、主観や迷信のたぐいが多くて、安心して一生を託し得るような人生ビルの設計書はないようである。
これを造り上げることは、最上の楽しみである。人間の運命は自ら開き、その境遇は自由に選び取ることができるものである。この理に早く気づいた人が、人生の真の勝利者となれるのである。
一日一日、厚みのあるよき体験、経験を積み上げてゆく人の人生には、どれほど大きな価値が与えられていくことであろうか。人生は時の計画である。時の上にしっかりと人生を積み上げ、自己を積み上げてゆく。宇宙の計画通り、人生の春夏秋冬を立派に生き抜く。
楽しい、楽しいと楽しさで生かされる。楽に生きれば生きるほど、味わい深く、喜びが増すように、人間は創られているのであるし、そうでなくては、この人生というものが何のためにあるのかわからない。簡単で楽しい中から、よき生き方が作り出されてくる、また与えられてはじめて、人間は生きがいや希望を感じられる。
●六十歳からの値打ちについて
昔は四十歳を男の厄年といって、そろそろ老境を知る境目で、何となく体が弱って、人生の転機となる人が多かった。現代では一般に寿命が延びて、老いてますます体力、気力の若々しい人が多くなっているから、六十歳を〃役年〃というべきであろう。
これは、お役目につく役年であり、重役になる年なのである。そうして、九十歳までの三十年間が重役時代である。
今までは定年制などといって、人間を五十五歳から六十歳くらいで一応片づけてしまったが、それは世の中の人たちが五十歳をすぎ、六十歳ともなれば気の抜けた老人になって、つまらない老後を迎えていたからであって、真の人生、本当の人間としての値打ちが発揮されるのは、実は六十歳からである。
各人の体に積み上げられた能力がたくさんの人を使って、何十倍、何百倍もの価値を発揮する六十歳からの人生というものは、素晴らしい収穫の時代なのである。
それゆえ、定年というのは会社をやめ、職業を捨てるということであってはならない。肉体労働は若いうちのこと、才覚、知識、知恵、体験など、すべて精神活動のさえてくる時に、定年だのといって人生の価値に頓挫(とんざ)を感ぜしめてはいけない。
人間に本来与えられた人生は、陽の六十年と陰の六十年、この先が百二十歳まで六十年ある。定年といっても、その前と後で大きな差があるわけではなく、急激に変化が起きるわけのものでもない。定年を老化の始まる年などと勘違いしてはならぬ。
人間の天寿は百二十歳。ゼロ歳から百歳、百二十歳まで百年、百二十年間、一年ごとに春夏秋冬の年輪を積み、毎日にあっては朝昼夕夜の日輪を重ねている。そして、その真ん中の六十歳が若年と老年の境界で、第二の人生の始まる年齢である。
人間の定年百二十歳説を鼓吹し、六十からの人生を奨励しよう。私の九十五歳も、ちょっとぐらい疲れを感ずることがある。若い時とは違う。しかしながら、疲れ直しの法もある。気分転換の法もある。私ならではの道もある。
誰もが六十年かかって仕込んだ蓄積を、後の六十年で、自己のために完全な自己を作り上げたり、社会、世界のために働く糧とせねばならない。まさに塾年時代、第二の人生設計は、まず百歳を目標にして働くことである。
前にも述べた通り、年金で生活するなど社会に頼るのも便利でよいかもしれないが、本質的には、自分が若い時に力の限り働いて、老後の設計をしておくことが大切である。人間の生涯は、前半の六十年間に国家、社会のために働き、家を造り、子をなし、老後の備えをなす。後半の六十年間は、人生の四季でいえば秋と冬であるから、春と夏の間の努力と蓄積によって、日々を迎え、送る。
そこでまず、人間は誰もが六十歳に達したら、これを節とし境として、今までの人生を振り返ってみる必要がある。過去がわかれば未来もわかる。過去は死、未来は生。生死一如とは、過去と現在と未来が一続きであって、どこにも切れ目のないことをいう。
天寿を全うすれば、六十歳の定年の倍の百二十歳までも生きられるはず。天寿を全うする秘訣は、必ず百二十歳まで生きると固く決意し、無意識的自己暗示を通して潜在性意識、無意識、空意識に、その信念、イメージをしっかり焼きつけることである。
この天寿百二十歳の人間にとっては、定年はやっと折り返し点という一区切り。天地の摂理で、以後の老年時代が面白くなる。六十歳の定年となったら、ここでしっかりと心定めをせねばならぬ。定年とは年の上での心定め、自覚すべき時なのである。これからが真の人生、誰もが六十歳からスタートする老境の時代こそ、平等自由、差別即絶対の輝かしい人生の舞台であることを知らなければならない。
●高齢者も自主独立の精神を
日本人の平均寿命は世界一になったが、長生きの原因は何といっても、食生活の改善にあるようだ。昔は、栄養失調で結核になり、若い人がどんどん死ぬ。あるいは、生まれた子供が生きられないで、自然淘汰された。そういうようなことで、平均寿命は非常に短かったわけである。今でも東南アジア方面へゆけば、四十歳代というのが実情である。
日本では、食生活の改善によって、栄養失調で死ぬという人は、今や珍しい。また、医学の進歩、薬学の発達によって、寿命が延びた。健康保険制度の普及、生活保護法などによって、一銭の金のない人でも、脳外科手術も、心臓手術も全部、たとえ一月に百万、百五十万かかっても国家が見てくれる。
老人の医療無料化ができて、今や老人病院は花盛りである。高齢者の治療には、一般人の平均四倍の医療費がかかっている。そのため高齢者の数が増えれば、その四倍ずつ医療費も増大していくのである。平成二年の国民医療費二十兆円が、人口構造の変化で十年後に五十兆円に膨れ上がるといわれる。このため、日本の医療制度そのものを考え直す時期にきているのである。
日本では、本格的な高齢化社会を前にして、高齢者対策の主眼は、介護設備と介護者の整った住居だ。民間では医療施設の完備した老人用マンションが、ぼつぼつ建てられているようだが、高価で一般にはとても手が出ない。
長寿社会へ向かっての大きな課題の介護をどうするか、その対策を政治がきっちり立てねばならないところにきている。
六十五歳以上の高齢者は、増加の一途である。厚生省の推計では、三十年後に全人口の四分の一を占めることになると予想されている。今は五人の働き手が一人の老人を支えているが、二〇四〇年には二人で一人を支えねばならない、という事態がくる。これを現在の年金制度でカバーするとなると、実際、大変なことになるだろう。
従って、年金の方法も全く変えなければならない。十五年、二十年たてば、年功序列型賃金というのは支給できなくなる。退職金制度は廃止しなければやっていけない、という予測もある。なぜかといったら、そのような厚い階層の人たちがずっと生き続けるわけだから、その人たちを小さな人口で面倒見ることは大変なことである。
医療の問題についても、健康作りと予防医学、特に成人病対策を進めなければ、医療制度そのものがパンクしてしまう。
高齢化が進んでいる時、老人病に対する医学も遅れている。老人の病をただ後から追いかけて、薬だ、介護だというのでは、まことに貧しい医療ではないのか。精神安定剤や降圧剤、抗うつ剤は、しばしばボケの症状を悪化させるともいう。正しい食生活の指導も必要だし、時には、真理的なおおらかな性生活も必要だと説く学者もいる。
だからこそ、自分の健康は自分で守る、自分の暮らしは自分で守る、というような原理原則を、もういっぺん考え直して、全部年金とか社会保障によって安楽な生活を望むという、物の考え方は改めていかなくてはいけない。
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