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∥生涯現役への準備4∥

 

●退職後に向けたネットワーク作り

 私が人の集まる朝の講座への参加を勧める理由の一つは、日本のサラリーマンが一般的に公私の使い分けが下手だといわれるからでもある。就職した後は、自分の職場の人、あるいは取引先の人との付き合いしかないという人も少なくない。日本人にとって、そういう生活パターンは、外国人が考えるほど苦痛でも不合理なものでもない。むしろ、公私の使い分けの必要性など感じていない場合が多い。

 そこに心地よく、楽にわかり合える人間関係があるからだ。自分と同じ価値観を持った人間が、職場の愚痴、不満にうなずいてくれる、日本ならではの暗黙の世界がある。以心伝心、いちいち細かなコミュニケーションがなくても、理解し合えるということは非常に楽で便利である。同一民族、島国日本のある意味でのメリットだと思う。

 しかし、国際化時代、ボーダレス時代といわれる今日、このような文化特性が世界に通用しないことは、いうまでもないだろう。海外に赴任してまで、日本人同士でばかり付き合って、現地社会に溶け込もうとしない習性が批判を受けている折でもある。

 また、家族とのかかわりを除けば、すべて仕事の延長線上の付き合いでは、いろいろな意味で人間の幅を狭めてしまう。ビジネス上の付き合いは、ビジネスが成立しなければ消滅する。これからのサラリーマンは、仕事以外の人間関係をいかに多く作るかということが大切になる。その意味で、異業種交流の場を持てる講座や、趣味やレジャーなどによるサークル、グループに参加することを勧めるのである。自分と違う分野の人と付き合うということは、人間としての幅を広げることにつながる。

 現在の仕事の面においても、自分とは違う異業種の土俵を知れば、新しい発見や考え方もできることにつながる。職場を中心とした小さな世界だけで生きていると、マンネリ化した常識的な物の見方、考え方に偏ってしまう。外からの情報や知識などの刺激は、新鮮でプラスになるものが含まれていることが多い。

 ただし、異業種の人と知り合った当初から役立つことも少ないだろうが、次第に付き合いが深くなり、これが将来は大きな情報源に育ってもいくのである。自分が職場を退いた後も持続できる、個人的な人脈ネットワークを作ることも大切なのである。

●将来の基礎となる自己の確立

 さて、ここまで、その過ごし方を述べてきた青壮年期は、大いに働く時期に相当する。上り坂で、苦しいに決まっている。だから、運命を進展させるべく前向きに対するか、苦しいからと逃げ出すかによって、その頂上はひとりでに決まってしまう。

 自分の努力、精進や懈怠(けたい)によって、位するところが決定する。自分の登りつめた頂点が海抜五百メートルか、三千メートルかは己が決めることで、はたからはどうしてやりようもない。

 青少年期は苦学生でも、壮年期の実践活動のいかんによって、秋冬の取り入れ、実りが必然的に決まってくる。思う存分、自らに後悔のないように、与えられた天職に体ごとぶっつけ、人格を高めて、険しい山の登り坂を登りつめて楽を得よう。成否は自分の掌中にある。

 人間というものは、己の欲する理想像を常に心に描き、その姿を目標として日々努力、精進を怠らなければ、やがて人生の秋冬になって、理想の人間像にまで到達することもできるのである。

 また、楽、楽しみということも、人生の最後にたどり着いてこそ、値打ちがある。喜怒哀楽というのは、江戸時代の劇作者が劇を組み立てる順序だったそうである。喜び、平穏な生活の中に、やがて争いが起こり、悲しみ、苦しみの果てに、最後は平和がよみがえり、楽でラクになるというわけだ。一カ月の芝居が終わる日を楽というし、大相撲の千秋楽というのも、そのあたりに由来があるのだろう。

 漢詩でいう起承転結の結は、最後の結びだが、楽ということも、人生の最後にたどり着く結びといった意味に、昔の人は使っていたということだと思う。人生の中途半端な時に楽があると、かえって後で苦しんだり、悲しんだりする。人生行路の途中で、あまり楽におぼれていると、後から、とんでもない苦労が起きてくる。泣かなくてはならないことになる。

 苦中の苦を受けざれば、人の上の人たること難しで、苦労をなめ尽くした人でないと、とても人の上には立てない。苦労人という言葉は、なかなか味わいが深い。楽しい環境にあって感じる楽しみは、本当の楽しみではない。苦しい経験の中で楽しみを得てこそ、人ははじめて、精神的にも、行動の面でも、本当の働きを見いだすことができるというものだ。

 苦労を楽しみに変えて、仕事に忠実、勤勉の毎日を積めば、将来の生活の基礎となる自己というものも確立するであろう。

 財政的にいうと、人生には病気や旅行など不時に必要な費用があるから、貯蓄は計画生活、すなわち保証される安心感のもと。もちろん、貯金はより有効に使うための前提、準備である。お足、お宝は、有効に使う人のところに集まり、無駄に使うところから流れ出す。徳もなく、強引に他人の所有を侵しても、天は水の流れのように必ず平均化してやまないものであることを忘れないようにしたい。

 自らの風貌については、四十歳以後は本人自身の後天的な責任にある。もはや、親がどうの、女房や隣人がどうのといって、責任転嫁をしてお茶を濁せる年齢ではない。また、厄年とか更年期など、心身ともにようやく壮老の峠にかかる。三十年の生活がでたらめだと、四十代の前半にゆがみがきて、場合によっては死を招く。

 金も、地位も、名誉も、学力も、力相応について、ぐんぐんと頭角を現すか、平凡に沈潜するか、または脱落する。

 性も衰える。特に、女性は更年期の障害に直面し、肉体と精神のアンバランスに悩むが、生活が正しく、楽しい日々を送っていれば、「気」と肉体が調和し、ギラギラした夏の日照りではなく、日本晴れのさわやかな小春日和の毎日となる。

 そして、孔子が「四十歳を不惑、五十歳を知命(天命を知ること)」といったように、五十歳ともなれば、人生の頂上が見えてくる。もはや無理もできないが、何のために生まれてきたのか、何を世の中に奉仕すべきか、わかってくるだろう。

 人生の目的とその決算、個人の限界も、自他ともに結論づけられると、急に、今までの無反省だった前半生のがむしゃら流に引き換えて、自分を客観反省し、厳しく自己審判もする。人柄も急に一変し、四囲を驚かす。

 もちろん、五十代はまだ老境ではない。しかし、すでに老いの坂は目前に迫っている。だが、「いまさら」などとあきらめるべきではない。今こそ第二の人生、生涯現役の仕事や趣味、真の人間開発に全余生を惜しみなく投入すべき最後の山場である。

 人間の幸不幸は、晩年にかかる。前半生はいかに華やかでも、最後の実りの収穫を取りこぼしては、もったいない。後の祭りと悔いないように、まだまだ間に合う。

 天の定めでは、六十歳以後も過去の人生体験が自然に働き、物をいって、いたずらに肉体を働かせなくても結構仕事はある。老人でなくてはできぬこと、わからぬ仕事はたくさんある。

 誰もがまず、百歳を目標にして働くことである。休むなら百歳からである。

 百二十歳までを、生きては神、仏というような理想的な生活設計を立てねばならない。あくまでも個人と宇宙天地大世界という根本を認識し、宇宙性という真理に立脚して存在する自己の確立に努めるべきである。

 

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