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∥生涯現役を過ごす気構え4∥

 

●人生の味は晩年にある

 人間は年を取らないと、本当の人生の味というものがわからない。

 他力によって生かされているという本当の人生の味は、六十歳から出てくるものなのである。言葉を換えていえば、六十の坂を越さなければ、人間の味の真髄はわからないともいえるだろう。不平や不満、悲憤や絶望よりも、他力によって生かされて生きていることへの感謝、感激がわかるようになる。

 人間が年を取ってから、かえってさまざまな味が出るのは、若い人にはない働きができるからこそである。「自分にどのような仕事ができるか」とよく観察すれば、楽しい、老人らしい働きがあるものである。この楽しさと味が出るということは、老人の特権なのである。老人は、あらゆるものから、これを感ずることができる。

 「年を取ったら楽をしたい」などと考えるが、楽をすることと、楽しく生きることは違うのである。楽をするというのは、意識的に考えることで、楽しく生きるというのは、肉体的に感ずる、肉体感覚なのである。本当に、真に徹する、善に徹する、美に徹するなどということは、肉体をもってしなければできないのである。

 そういう人間の味わいに通暁した人が、次の世を背負う若者を指導し、仕立て上げるということでなければ、優れた人づくりにはならないものである。

 さらに、八十歳をすぎると我欲我執がなくなり、肉体が宇宙性を帯びてくるから、人の指導はもちろん、人に「気」を与えることができるようになるのである。人間の偉大さというものは、人生の老後にあるので、その偉大さや本当の価値は死ぬ時まで続く。

 かの親鸞は八十歳を超えてから、「教行信証」の大冊を完成した。鈴木大拙老も九十歳を超えてまで、海外行脚や日本仏教思想を紹介する英訳本を何冊もものにしている。

 百一歳で天寿を全うされた奥村土牛画伯も、年を取るとともに、日本画の充実、円熟の度を増した。日本百歳会の元名誉会長で、高名な彫塑家であり、文化勲章を受けた平櫛田中翁のように、百七歳まで生き抜いた人もいる。まだ三十年も五十年も仕事をするほどの木材を買って、枯らしてあったという。その意気である。

 作家の野上弥生子さんも白寿を迎えた時、十二年間に渡って長編「森」を毎日二枚ずつ書き続けていたというが、気迫のこもった鋭い筆はみずみずしいものであった。

 現役の方では、三重県津市在住の樋口恒通さんは、今年百二歳でなお弁護士として、毎週木曜日の午後には津市役所で、市民の「悩み事相談」に応じている。「世相がよくわかるので、時代感覚にずれはない」とおっしゃる樋口さんは、弓道九段の腕前でもある。

 同じく百二歳を迎えている徳島県の小笠原豊雄さんは、八十の手習いで始めた絵で九十歳で画人として独立、毎年新作日本画展に入選し、九十八歳の時には第二回目の個展を開くなど、なお元気で活躍されている。

 このように、人間は老熟するごとに尊さを増す。人生の味は晩年にある。その人の成否は晩年のあり方で決まる。人間国宝は皆、六十歳をすぎてから、七十、八十と神業、名演を発揮する。誰もが、希望を捨てて生きる意欲を失ってはいけない。

 紹介した過去の人々は、それぞれの人生記録、人間完成記録を残している。現役のお二人は、今も記録を作り続けている。我ら現在に生きる人間は、先人や先輩の最高記録を目標にして、歩んでゆかなければならない。そして、その記録を破らなければならない。それが人間の生きがいである。

 また、我らの後に続く子孫のために、可能な限りの、高い人間としての成果を残しておかねばならない。その基盤の上に立って、子孫はさらに発奮して、より高い人間の文明を築き上げてくれることであろう。

 すなわち、長寿を全うして人間を完成するという、人生の真の楽しさは晩年にある。自然の四季に、それぞれ美しさ、楽しさがあるように、人生の四季にも、年齢や時期に応じた美しさ、楽しみがある。これを発見して、喜び、楽しむことが大切である。

●〃朗人〃の楽しい生き方

 人間は生きているということの中に、無限の楽しさがあるのであるが、現代人は人間心の意識的な楽しさを求めて、誤りを犯している。意識的なものは、一時的で強烈であり、危険を伴い、身を滅ぼすものである。

 本当の楽しさを身につければ、健康になるし、楽しさが人間を引きずってゆき、楽しさに引かれる人生を送ることができる。楽しさの中から知恵も生まれ、運命も開けてくるのである。

 まだそれほどの年齢でもないのに、自分から老け込んでしまってはいけない。「もう年だから駄目だ」などと、ぼやきながら暮らすのは、自ら墓穴を掘るの例え通り、せっかくの寿命を縮めてしまうことになる。

 本来、人間は年を取るほど頭もさえ、感情や欲望も浄化され、美しくなるものである。八十、九十は人生のうちでも最も美しく、味のある時期なのである。最高の時期を持たずに終わってしまうのはばかげている。終わる間際になって、いくら嘆いてみても、もう取り返しはつかない。

 長寿のもとは健康である。健康を保つための生き方は、若いうちから始めるほどよいが、幾つになっても遅すぎるということはない。気がついたら、すぐ始めることである。

 老人になったからといって、必ずしも老衰したり老廃するとは限らない。老人とは〃朗人〃である。

 老後の生活には、風流三昧(ざんまい)、読書三昧、あるいは趣味に生きるなど、いろいろの生き方がある。さらには、人間三昧、生活三昧、毎日の「生かされて生きている」ということが非常に楽しいということになれば、真の老人となることができる。そうなれば、老人といっても、明朗の朗に徹した人という意味の朗人である。

 生涯の掉尾(とうび)を飾る最もよき時代にあることを喜び、一日一日を、一刻一刻を楽しみながら生きるならば、その心境はまさに神境。それこそ人間としての尊厳の極致である。

 すでに見るからに老衰し、また周囲からも老衰者扱いをされている人たちも、ここで自らの天寿を知り、そのための生き方を習えば、今からでも生命の延長は不可能ではない。人生は何を始めるにしても、決して遅すぎるということはない。

 老人といえばすぐに老化という言葉が返ってくる。確かに老人に老化は付き物である。しかし、老化といえば、百二十年間の毎日が老化という変化の連続であって、特にある時期からの変化が老化というわけではない。春から夏に、夏から秋に、秋から冬に。これは単なる季節の移り変わりである。老化も同じ。それが天寿のおきてである。

 子供が次第に成長し、成人となるのも一種の老化である。花が咲くのも実が生るのも、みなめでたい老化現象である。老化を老成とし、晩年を立派な老年時代たらしめねばならない。

 この点、世間で一般に使われている老化という言葉には、意味の上で誤りがある。大いに異議をいい立てたいところである。老化とは、老いてますます明晰化し、神格化されるべきもの。老化とは、極まるところ、そのような変化をいうのである。

 老人とは、このように貴重なものである。今後は日本の人口構成における高齢化が進み、老人の比率は増加する一方であるが、これはまことにめでたい、祝福すべきことである。それだけに、老人の健康管理はいよいよ重要なものとなってくる。

●人間完成こそ最後の仕上げ

 天は無生物から生物を創り、ついには人間を創ることに成功した。人間は天の理想であり、目的物である。しかし、人間が人間としての完成を遂げるには、人間自身の力によるほかはない。

 人間が人間として完成する人間成就は、一人ひとりの人間にとっても理想であり、目的である。のみならず、人類全体にとっても理想であり、目的である。それは若年にしては得られない。いわゆる老成によるほかはない。そのことをいかに自覚するかが、その人、個人の価値を定める。

 中国では、古来、優秀な人間を大人といい、老師とたたえている。人間としての老成こそ、人間の生き方として最も重視されたのである。そのためには、よき若年、前半生を持ち、それに続くよき老年、生涯現役の後半生を送るよう心掛けねばならない。

 老人は健康であってこそ、その最晩年を全うすることができる。この時を目指して人生をひたすら積み上げてきたのである。これからが老成、人間としての完成を遂げるべき時。一人の人間にとっての最高、最良のページが、いま開かれようとしている。

 これまでは、あまりにも人間が人間を知らなすぎた。そのために、最も大切な老年期を軽視し、人生全体をつまらない味気のないものにしてしまった。しかし本来は、誰もが、老人になってからはじめて、最も好ましい、輝かしい時代を持つことができるのである。

 死ぬまで希望を失うな。人間は、人間の目的を知ることが大切である。生きがいを趣味や信仰に求めることもよいけれども、人間完成という大目的を極めることができると、老後こそ最後の仕上げとなる。

 人間として完成期に入ったならば、宇宙が生かしてくれるままに、宇宙に任せて、素直な態度で、楽しく生きてゆけばよいのである。これは誰にでもできる、どころではない。それが一番楽しく、気楽なのである。

 この楽しさこそが、人間が生きるに当たっての大きな推進力となるものだ。楽しさがあるために、日常の繁雑な生活も苦にならない。たとえ不快な出来事があっても、それを越えるはるかに大きな楽しさを持っていれば、よほどのことでない限り大して気にならず、すぐに忘れ去ってしまう。この楽しさは、幸福につながるものである。

 また、おおむね生きがいということは、何かに感動して生きていてよかったと感ずる生きがいと、何かの物事の達成、成就を目標として志向する生きがいとがあるが、突き詰めれば、それぞれの中に楽しさが共通していることがわかる。この楽しさは美しさを呼び、さらに善につながる。

 そういう楽しいということは、実は、天から与えられたものである。

 安心立命ということも、まず天を相手にしなければできるものではない。社会や人を相手にしていては駄目である。物質的な満足や感情的な満足などというものは、果てしがないものである。

 人間が作り出して享楽する楽しさというものには、いつも悲哀や犠牲が伴っているが、天が与えてくれる楽しさには、美しさ、心地よさがあり、善という働きがあり、真という間違いのない、誤りようもない軌道が天から敷かれている。

 ただそれに沿っていけば、天が保護してくれる。向こうが生かしてくれているのであるから、こんな力強く楽な生き方はないのである。

 こうして生かされて作り上げた知恵、知識、技術、能力を社会、世界のために教え、残してゆく。この人生の最後の仕上げというものは、実に楽しいものである。

 

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