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∥生涯現役を過ごす気構え3∥

 

●生涯現役の生きがいを探究する

 そういう社会参加活動や生涯現役の労働の中に、あなたの生きがい、幸福が見つかるのである。恍惚の人にならないためには、生きがいを持つことである。精神にたるみがあり、心に妄想や思い惑う憂いがあれば、肉体は自然に酸性に傾いて、自ら寿命を縮めることにもなる。

 シモーヌ・ド・ボーヴォワール女史は、「老い」という著書の中で、「老いがそれまでの人生の哀れなパロディーでないようにするためのたった一つの方法は、人生に意義を与えるような目的を追求し続けるしかない」といっている。

 自分自身の目的、生きがいがわかれば、老後こそ最後の仕上げと、自己の晩年に磨きがかかる。気合いが入る。

 誰もが生きがいを追求して、生きているうちは働くという思想を、もっとしっかり人間の価値、光栄として自覚せねばならない。

 人生の再スタートを切る六十歳からの老境時代、それは一般のサラリーマンであれば、定年後もう一度人生があるようなものである。老後をいかに充実したものにするかということは、これからの高齢化社会ではますます重要になる。

 数年前、定年より一足早く退職し、第二の人生を切り開こうという人が相次いで、マスコミをにぎわした。法務省の官房長が五十七歳で退職して福祉の仕事を目指したり、一流銀行の取締役が五十三歳で修行僧になって、第二の生きがいを探し出したという例もある。

 人間とは、生きがいなしに、目的なしには生きられないものである。趣味もなく、定年まで仕事一筋できた人は、往々にして老け込みやすい。定年後、ただ無為に毎日を過ごすばかりの生活では、人生はつまらないものになってしまう。

 人生における目的や生きがいとは、世代と環境によって変化するし、基本的には個人的にそれぞれ異なるものではある。特に人間のライフスタイルが多様化、個性化している現代である。しかし、個人的に異なるものとわかっていても、どうして、生きがいが、現代において、こうも真剣に未解決な課題として取り上げられているのであろうか。実は、そこに生きがいとは何かを解くカギがある。

 個人的生きがいを求めているにもかかわらず、無意識的に普遍的な生きがいを希求しているのである。他の生物にはない、人間だけが求めている生きがい、特に、六十歳をすぎて老境に入った生きがいこそ、人生の悼尾(とうび)を飾る指標である。

 老人になっても、生きがいとなる仕事、仕事を持たなければ趣味でもいいから、何らかの働きをせよ。遊んでいては駄目だ。何かに情熱を燃やせ。

 幸いなことに、現代社会は人それぞれ、さまざまな楽しみ方ができる時代である。自分が一生かかわることのできる目的を、仕事でも趣味でもいいから一つでも持つことができれば、その人の人生は、有意義で張りのあるものになる。芸は身も心も助けてくれるのである。

 人生の目的は、体力より技術、広さより深さを求めるものがいい。そして、何よりも自分の好きなもの、興味のあるものでなければならない。今や週休二日制が普及したから、若い時から余暇時間を利用して、定年までの期間コツコツと知識を深め、技術を磨くことができれば、その人の老後は充実したものになる。例えば、現役の社員当時から英検や不動産鑑定士、税理士、中小企業診断士など何か特殊資格を取っておくことが、定年後の人生に役立つ場合が相当多いようだ。

 一見つまらないものでも、その道を極めればエキスパートになれる。未来社会は、細分化の時代である。ニーズがあれば、もちろんビジネスとしても成立することにもなる。ただし、ビジネスを目的としたものは、ある程度市場性を考えなければ長続きしないので、状況判断が大切である。

 過去の偉大な発明、発見、そして芸術作品を見ても、その人が六十歳、七十歳で成し遂げた例も少なくない。技術や真理は、経験を積むことで味が出たり、わかったりするものである。充実した人生を送るため、現在の時間を有効に生かし、一回り大きなスケールでライフスタイルを考えることを勧めたい。

●生きる生活から、生かされる境地へ

 退職という社会的な節目は、人生そのものの転換期でもあり、「生きる」という態度から、「生かされる」という自然の生活原理に切り替える大切な節目でもある。

 人間は元来、いつでも、どこでも、何をしていても常に楽しく、幸せに暮らせるように自然に創られている。それなのに、多くの人は、自我意識から生じるさまざまな欲望に妨げられて、真に生きる喜びを知ることが少ない。しかし、誰でも年を取るに従って、こうした欲望は弱まるもので、老人はいわば尊い幸福を知る特権者なのである。福祉が老人に幸せをもたらすのではなく、「生かされ」の境地が、安心立命をもたらすことを知ってもらいたいものである。

 人間というものは、六十歳までは自力を主とし、六十歳以後は他力による生かされを主とする時代となる。六十歳を境目にして、それまでの生きるという我欲の時代から、生かされているという生活に切り替える時期に相当するものである。

 すなわち、人生の秋たる六十歳前後を転機として、また自然に返っていく。意識的な社会生活を六十年とし、六十歳の定年以後百二十歳までは、自然人としての素晴らしい人生を歩むということになる。

 なるべく意識生活を少なくして、肉体生活に切り替え、生きてゆこうという心を次第に少なくする。そして、宇宙大自然の理法によって生かされているのだという、他力の存在をよく自覚し、天地大自然と人間の関係を尊重していくように生きれば、秋晴れのような他力人生が続く。

 生きる生活から、生かされているのだという生活態度への切り替えを上手にすれば、人間は百歳以下で死ぬものではない。また、七十歳をすぎてからでも、生かされているという自然生活に任せ切ると、九十、百くらいまでは大した変化もなく、衰えもなく、平穏に生き続けられるようできているものだ。

 例えば、八十年代に国際的に定着した学説によれば、年齢に伴って脳が退化するというのは憶測にすぎず、老人のもうろくやボケは、老化よりも孤独が原因だという。

 一般に、知能は二十歳まで発達するが、それを頂点にして以降、年齢とともに低下するという、知能の古典的パターンが信じられていた。老人は脳細胞の老化から、記憶力の減退をきたし、ものを聞く場合、注意力が散漫になっていて、鮮明な印象として残像をとどめない。従って、年々忘却現象が加速度を駆って起きるのは当然で、やがて客観の世界は幅を狭めてゆくばかりで、柔軟性の乏しい老人特有の世界に閉じこもるのが落ち、というものであった。

 この考えによれば、ゆき着くところは、あたかもボケ状態が待ち受けている、といった錯覚に陥ってしまう。だが、知性は少なくとも六十歳、場合によっては七十歳頃までほとんど低下せず、逆に三十歳、四十歳以降になっても、若干上昇する傾向があるということが、明らかにされたのである。

 つまり、老齢になっても社会生活に参加していれば、八十歳になっても知的発達があり、進歩するもので、隠居などすると脳の退化が早いということだ。

 だから、老人は努めて客観の世界を風化させないよう努力する必要があり、進んで社会生活に参加せよ、新知識を求めることを怠らぬように頭を働かせろ、というわけである。

 そして、今からでもよいから、気のついた人は、生かされの生活を始めようではないか。命さえあれば、生きてさえいれば、これからでも間に合う。「まだ若い者には負けない」と、気ばかり焦っても、無理は利かない。生かされの時期に入っていることをよく理解して、自覚しなければならない。

 この生かされの生活には、自然に任せて暮らすことが大切。こうして肉体の自然機能が旺盛に働き出すと、五官もはっきりと正確になる。見るもの、聞くもの、味わうものがよくわかり、無駄やボケがなく、口数も少なくなって態度も落ち着き端正な人になるものだ。

 反対に、年を取るにつれて欲が深くなり、口ばかり達者で理屈をいうが、体がそれに伴わない人がいる。それは、まだ「生きよう、生きよう」という我欲の強い人であり、本当は六十歳をすぎると、年とともに欲が淡くなるのが自然である。なるべく意識生活を少なくして、自然に合わせて生きていくのがよい。

 自然律に従って生活し、宇宙という大自然に生かされ、この現実社会に生きているという真理が十分に理解され、実行されていれば、その人の老後は満ち足りた楽しいものになる。若い時にはわからなかった、物事の微妙な味を細かく知ることができる。その時、老人になってよかったとしみじみ実感することだろう。

●円熟した「気」をほとばしらせる

 老後は、いうならば人生の芸術的な生き方を、毎日の生活の中で繰り広げ、その滋味をゆっくりと味わってみたいもの。この気持ちを失わないならば、次々に新しいことに興味が湧き、楽しさが増す。老境を迎えた人間として、最高の幸福がここにある。

 老境に入ったら、誰もが生命力、エネルギーの内容は限られてくるが、その限定された中から、まだまだ新しい生命力を芽吹かせることができる。健康を失いかけても、取り返すことができる。若返ることも、年を取らずに元気に生き抜くこともできる。

 そのためには、「気」から作る力、「気」というもの、つまり他力を自力にするのである。宇宙天地大自然世界から各々の肉体に到来する「気」は、他力であり、生命力であり、エネルギーであるから、これを利用することができる。意識で生きず、この他力を利用して、宇宙大自然から生かされているという生き方をすることである。

 五官が本当に働いていれば、他力は五官からも吸収できる。また、空意識、無意識というものが備わる下半身からも、いくらでも吸収できる。足がしっかりしていれば、下半身の他力が上半身に上ってきて、自力という形で生きる世界に働くのである。

 そもそも、人間は自然の「気」を受けて、それを毎日の生活の中に取り入れている。この「気」から作られる力は大変な働きをする。精神の充実も、この「気」による力によってなされる。

 この宇宙からの生かす力を体に受けることは、まことに簡単であるが、一般現代人には、生かす力に生かされているのだということが、案外理解されていない。ただ自分が勝手に生きているくらいに考え、意識過剰、感情過多などで、体に圧力をかけ、体が自然作用そのままに働かないようにしているために、他力が働かなくなっているのである。

 他力という自然の「気」が弱まると精神が衰えるから、代わって意識がはびこるようになる。肉体も衰えるが、この意識というものが追い打ちをかけるようにするため、ついには意識だけが取り残され、幅をきかせる羽目になる。まだそれほどの年齢でもないのに、体力が衰えたり、頭がボケかかったりするのは、みなこういった理由によるものである。

 だから、老人になっても気力旺盛な人がいる一方、さほどの年でもないのに、すっかり「気」が弱り、滅入って、蕪村の「牡丹切って気の衰ひし夕べかな」を、地でいっているような人もあるわけである。

 だが、六十歳をすぎた人も悲観することは決してない。ボケるというのは意識ボケであって、本来は少しもボケるはずはない。老人は恍惚の人などといわれもするが、本人の自己意識があれこれ働かないということで、人間本来の意識層は少しもボケるわけはない。体力の衰えや頭のボケを防ぐには、自然の「気」をよみがえらせ、その力に頼るのに勝ることはない。八十歳を超える高齢になっても、なお元気でいられるということは、その人が自然の「気」を多く取り入れている証拠なのである。

 人間は生涯、天の生かしてくれる力、すなわち自然の「気」という他力で生かされているものである。この力がよくわかり、この力をいつも十分に受け入れる心掛けがあると、ますます長生きすることができるものだ。

 体力的な面から見れば、高齢になれば衰えるのは当然である。しかしながら、向上性を失わなければ、精神は年を取っても衰えたり、弱まるということはない。むしろ逆に、年とともに磨かれ、純化されるものなのである。立派な老人といわれる人の精神は高く、豊かな人間性を支えており、知恵の人である。

 この精神が、老人を人間として支えてくれる。そればかりではない。高齢者にならなければ得られないような、人間としての価値を与えてくれる。過去が長いだけ、体験も、知識も多く、むしろ冷静に物事に対して判断もでき、人間としての価値は年を加えるほど増してくるものである。

そして、青年や壮年のような体力、気力はなくとも、長い年月、全身に蓄積しておいた人生体験を必要に応じて引き出して使う。

 「含蓄の発露」といって、この長い人生体験から得られたものが、自然ににじみ出しているような老人は、魅力のあるものだ。若者にも劣らぬような、生新はつらつとした弾力性が感じられるのも、円熟した「気」がほとばしり出ているからだろう。

 

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