「気が乗る」など「気」という言葉が日本語で使われる時、そこには必ず肉体感覚が織り込まれている。では、人間関係において、「気が合っている」ということの本当の意味は、どういうものだろうか。
「気が合っている」といえば、心理的な問題にすぎないと考えられがちである。「性格が合う」、「意見が合う」、「お互いを認めることができる」というような点から判断しているからだ。
だが、同じような意味の「肌が合う」という表現で考えてみれば、これからはきわめて肉体的言語だということがわかる。「肌が合う」ということは、まず生理的嫌悪感を感じないということだ。次に、適当な距離感を保てるということでもある。「肌が合わない」のでは、近寄るのも嫌なはずだ。
この表現同様、気が合うとは、心理的なものというよりは、肉体言語、身体言語として理解すべきなのだ。気が合うとは、肌が合うに加えて、リズムが合っているという意味も含んでいる。
「気」には呼吸の意味もあり、人間がとっている行動から見てみると、気が合っている人同士が出会うと、呼吸が合うということが起こる。これは「息が合う」という表現が物語る通り、呼吸のリズム、タイミングが似通ってくるということである。そして、互いに呼吸が深くなる。
これとは対照的に、嫌いな人に出会うと、呼吸が浅く、速くなる。
横隔膜に注目していえば、気が合う人といると横隔膜が下がり、気が合わない人といると横隔膜が上がる。ヒステリックになったり、やたらと感情的になっている時は、例外なく横隔膜が上がっているものだ。
横隔膜が上がり、呼吸のリズムがむやみに速くなったり、やたらに不規則になったりしてしまっては、エネルギーを消耗する。逆に、呼吸のリズムが合えば、一人でいるより元気になったりもする。
気が合うとは、体内のエネルギーがうまく流れて、循環しているという状態を指しているのだ。「気が合っている」という表現は、単に性格や心理状態にとどまらず、肉体的な要素をすべて含んだ、実に豊かな表現なわけだ。
しかしながら、このような気が合った、調和感のある安定した人間関係は、誰に対しても持ち続けられるものではない。一度や二度の顔合わせですむ間柄なら、意図的に社交的に振る舞い、自分と相手との間に気まずい空気が作られることを避けることはできるだろうが、努力して好ましい関係を作ろうとした後には、ずっしりとした心理的な疲労感が残るはず。
気が合わず、無理に努めなければ維持できない人間関係というものは、本来長続きもしないし、発展性もないものなのだ。
人間関係におけるより大きな問題は、気が合わず、好ましい間柄になれない人たちとも、日常的に接触しなければならないビジネスの場などにあるだろう。
近年、大きな企業体の職場は非常に改善され、快適に、能率よく仕事ができるようになった。厚生施設も整って、働くことによる肉体的な疲れは以前とは比較にならないほど少なくなったはずであるが、心理的な疲れ、人間関係についての悩みは、果たして減ったであろうか。
部下に「無理解だ」と思われている上司はどこにでもいるし、「使いにくくてたまらない」と上司を嘆かせている部下も決して少なくなってはいない。「人を人とも思わぬ」と考えざるを得ない、社外の横柄な取引先への不満を訴える人もよく見掛ける。
●性格についての知識が摩擦を軽減する
私たち人間は、自分一人で生きているわけではない。人間と人間の間に生きているのであるから、仕事や私生活における他人との問題で頭を痛めている人は男性にも、女性にも多い。同様に、他人と自分との関係や、自分の内部の問題について不平不満を持つ人は、若年層にも、年配層にも多いのである。
本来、気の合わない人間関係を意図的に維持することに、誰もが心理的な負担を感じるのは当然である。しかし、人間と人間の間に生きる人間は、気の合わない人たちとも付き合っていかざるを得ない。
その処方せんとして私が勧めるのが、人間の性格に対しての知識を持つことである。医学についての知識が病気の予防に役立つように、あなたの周りにいる人間の性格に関してもう少し深い知識を持っているなら、世の中の摩擦はもっと少なくできるであろう。
無論、トラブルは性格の問題だけから起こるものではないにしろ、予備知識を持っていれば、相手に期待してはならぬことを期待して失望したり、相手の気持ちを理解し損なってしまうことが、ずっと少なくなることは確かである。
つまり、人間関係における不適合感、あるいは違和感の少なくとも一部は、他人や自分の性格についての無知に基づくものといえるのだ。企業内部の機構が近代化されたり、能率的な設備、快適な事務用品が導入されようとも、人間の性格についての知識はまだまだ、一般化されていないのである。
現代はとかく、人間関係を複雑視する傾向もある。ここで、こじれた人間関係をほどき、袋小路に入った関係から脱出するためにも、人間の性格の全体像を捕らえ直す必要がある。
性格についての関心は、非常に古くからあった。有史以前から、人間が何人か集まれば、そこにいる男や、いない女の性格について、いろいろと語ったり、評価したであろうことは容易に想像できる。
性格について記述した書物の中で現存する最古のものは、紀元前三世紀のギリシャで著されたとされている。中世には、外部から観察される身体の諸属性から、性格を判断しようとする試みもあり、ここから観相学、骨相学、筆跡学などが発達した時代もあった。
今に生きる私たちも、自分自身の性格についてなら、五分や十分は楽に語り得るであろう。自分や他人の性格はまた、しばしば話題にされやすい。「私はどうも内気な性格でしてね」、「あの男は虚栄心の強いたちだから」などと、自分や他人の行動の理由を性格に求めることも度々あるものだ。
会社の入社試験のように人を選択する際にも、学歴や知識力、特技などとともに、性格は重要な考慮の対象になっている。
このように、「性格」という言葉は人々の間で日常的に使われているはずだが、改めて「性格とは、いったいどんなものなのか」と聞かれると、答えに窮するのではないだろうか。
「性格」という言葉の漢語としての意味は、「生まれつきの品性や位(くらい)」ということである。広辞苑では、「品性。人柄。各個人に特有の、ある程度持続的な、感情・意志の面での傾向」と解説している。「その人特有の性質」としている辞典もある。
「特有」と定義されている通り、性格はいつもその人間の内にあり、その人間に付いて回るものといえよう。