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∥見抜く側の自分を鍛える∥
●相手を見抜く側の自分の目を養うこと
以上のように、外観に惑わされることなく、他の人間の性格を客観的、かつ正確に判断するための留意点をいくつか挙げてきたが、いよいよ他人の性格の理解が難しいことが認識されただけ、という方もおられよう。
そこで、性格の理解を誤らないための次なる方法として、人間の行動に平素から深い関心を持つことを勧めたい。
「なぜ、甲野太郎はああいったのだろうか」、「なぜ、乙山花子はあの時、あのようにしたのだろうか」と、いろいろな場合を想像してみればよい。
人間の行動の多様性、変化の可能性について、いろいろの場合を想定しておくことは、目の前に現れた人について、「この人は今、何を考えているのか、何を要求しているのか」を知る上に必要なことなのである。
そして、想像を働かせつつ、目の前の人が男であれ、女であれ、その人間の行いを実際にじっくり観察してみよう。
例えば、相手が平然と視線を合わせ続けるなら、支配的で、自己顕示的な性格の人と見なしてよい。よくほほ笑むなら、社交的で、人付き合いがよく、気のいい人と考えてもよいだろうし、おしゃべり好きで、こちらの話を好意的に聞こうとするなら、気配り上手で、そつがない人といえるだろう。
体は正直なもので、顔にも、態度にも表れるから、いくら演技のうまい人であっても、虚偽、虚勢は長く平均して続くものではない。
人の行い、動き、振る舞いをよく見る力を養えば、性格がわかり、人柄もつかめるようになる。強情、頑固な人と、素直で、すっきりしている人とは、顔を見てもわかるし、態度を見てもわかる。人間の性格が、自然と姿、形に表れるからである。
見抜くのは目の働きである。眼光紙背に徹するほどに鍛えられれば、相手の運命や将来性まで、五官意識で直観することもできるようになる。
結局、他人を正しく見抜くための適切な方法は、日常的に多くの人々と接して、人間を見る目を養っておくことである。言い換えれば、人を見抜き、人を信用するには、まず見抜く側の自分を鍛えるべきだということになる。
人生は常に真剣の一本勝負である。何事にも一期一会という禅的な心構えで臨むべきである。
●他人の思考や感情を理解する能力を高める
自らの人間を見る目を養うには、他人の思考や感情を理解する共感能力を高めることも、一助になるだろう。
専門的にいうと、ある人の考えていること、感じていることなどを自分自身の中に移し替え、その人の内的世界と似た世界を自分の中に作り出していくことを共感といい、その能力を共感能力という。
共感は同情と似ているが、次の点で区別される。同情というのは、相手の考えや感情を「もっともなことだ」と肯定し、好意のある態度を示すことである。親を亡くした子供に同情するというのは、その子の立場に好意を持って、「何らかの形で支えてやろう」という動的な気持ちの表れである。
これに対して、共感というのは、むしろもっと静的なもので、他の人間の思考や感情を理解する能力である。共感から同情に発展することも多い。共感しても同情しないこともある。逆に、共感しないで同情することもある。
おおよその傾向として、共感能力の高い人は、温かい愛情に恵まれて成長した人であって、他人に関心を持ち、楽観的な物の見方をする。一方、共感能力の低い人は、内向的で、対人関係もうまくいかず、孤独であり、他人をあまり信用しない。
こういう共感能力というのは当人にとってかなり固有のもので、それほど簡単には変化しないものではあるが、少しでも高めるようとする努力が必要だろう。
人間の行動に平素から関心を持つことのほか、共感能力を高めるための一般的な方法は、相手に妙な警戒心を持たせないように注意し、自分がいつも安定した、落ち着いた気持ちを持っているように心掛けることだ。
こうして、自分が周囲と共感できる性格、周囲と調和できる人格を持つことができれば、おのずから、他の人間が胸襟を開いてくれるので、彼らの性格をより真実に近い形で理解できるようになるわけだ。
●周囲と調和できる人格を持てば人がわかる
人間というものは、周囲と調和できるのが自然で、調和できないのは自意識が強すぎ、我が強すぎるからだ。本当に自力を生かす者は、我が強くては駄目である。
強気に傾きすぎて、我の強い者は、依怙地(いこじ)である。他と調和するには、我に執着しすぎる。自分を生かすためには他をやっつけることを辞さない。素直になり切れない。自分さえよければいいは、実は一番自分のためにならない。
確かに、今の時代では引っ込んでばかりいると生活ができないため、どうしても、がむしゃらにならないと生きてゆけない面もある。
例えば、朝夕の満員電車に乗り込むようなもので、他人に譲ってばかりいては、自分の出勤時間も、人との約束の時間も守れない。自分の義務も果たせないということになる。どうしてもある程度は、他人を押しのけて、自分を生かす必要がある。
だから、この世に生きてゆくには、時に我の強い人間が得をするのは事実で、人がよすぎ、気がよすぎては、社会的敗残者になる可能性もある。他人に譲ってばかりいては生活できないから、ある程度の我がなければならない。
しかし、弱気に傾きすぎて、我が弱すぎるのも困るが、強すぎるのも困る。当人も困るが、周囲がなお困る。そして、はたから信頼もされずに反感を持たれ、ついひねくれることになる。
何事も程度問題だが、我が強すぎて、他のことはわからないという人間がいる。そこまでゆかない人でも、自力ばかりを頼って、自分の世界に入り込んで、他の世界を拒絶する傾向の人がいる。自力で何でも解決できると思う。その結果、自力以外を信ぜず、他力の世界を認めなくなる。
ともかく、人間は自力だけでは救われないもので、人間が自己を救おうと思うには、他力によらなければならないのだ。
一番簡単な他力である他人の助力についてみても、他人から嫌われる人、信用されない人、愛想をつかされる人などは、幸福にはなれない。
逆に、多くの人から愛されることは幸せであり、生きる喜びを得る。気のいい人間、仮に甲野太郎が、乙山花子に好意を寄せれば、「私のことを好いてくれる人の気持ちに、報いなくてはならない」という心理が花子に働いて、やがて、お互いに好意を持つようになる。
気がいい人間の振る舞いは、こういう好意の返報性というものを誘い出すことになるから、彼や彼女はますます、たくさんの人から好かれることになるわけだ。
結局、人間はともに生き、ともに生かし合うことが必要なのである。
一例を挙げれば、あの太陽が燃えているのは、太陽自体が燃えているのではなく、周囲の作用で水素の核融合反応を起こして、燃焼しているのである。
宇宙に存在するすべてのものは、何一つ独立し、孤立して存在しているものではなく、互いに相関し、助け合って全宇宙の中のものとして、宇宙と一体で現象しているのである。
ここに示した宇宙の全体性原理は、そのまま世の中の動きも、互いに相関し合っているもので、その相関する力なしには、存在も現象もあり得ないものだ、ということである。
人間は各人別々、互いにバラバラに、自分と他と区別するが、区別は同時に関係ということであるから、世の中一般は、この関係を生かし、ともに生きること、互いに生かし合うことが、宇宙の原理に従うわけである。
宇宙には、何一つ同じものはなく、人間にしても決して同じ人間は二人といないのである。
人間にはすべて、長所があり、短所のあるもので、皆が性格を異にしているが、実は、この人間相互の長短と差異が、お互いに引き合う力となるのである。このことをお互いに心して、生かし合いたいものである。
あまりにもエゴイストは、かえってエゴイストではない。なぜかというと、「利己主義だ」といって他人から共感されずに嫌われ、愛想をつかされたならば、自分が損するに違いないからである。物質的にも、精神的にも、他人に嫌われて得をするわけはない。
しかし、そんなことを考える余裕もないほど、利欲心の強い人はあり得る。そういう人が不幸になる時、「自業自得だ」といわれるのも致し方ないところだろう。
このような不幸に陥る人は、人間が「生かされている」ということが、実はよくわからないのである。自力とは、自分の力で生きることであり、自己の意識をもって行動する力であるといえるのだが、大事なことは、他力なくして自力はあり得ないということだ。
人間は、この他力という基礎の上に立って、はじめて自力で生きることが可能となる。また、真の自力とは、他力から養われる。
つまり、人間が自力で生きているということは、他力によって生かされているということの上にある。この生かされているということと、生きているということから、平等世界と差別世界がなってゆくのである。