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∥見せ掛けの性格に留意する∥


●人間の性格は一つの宇宙のようなもの
 私たち人間にとっては、自分以外の他の人間の性格を理解するのは難しいことである。

 一人の人間の性格というものは、それ自体が一つの宇宙のようなものに例えられる。その奥行きは非常に深く、日々刻々流動して、年々歳々変化している。これを十分に理解するということは、本来、きわめて難しいことなのだ。

 しかも、私たちが知り得るのは、他人についての像であって彼自身ではない。その人について自分の持っているイメージが、その人の実際の姿と一致しているかどうかは、何の保証もないのである。

 ここに一人の人間、甲野太郎がいる。甲野太郎について、他の二人の人間の評価や意見が違うのは、日常よく経験するところである。太郎は一人しかいない。その太郎に関する評価や判断が同じでないのは、それぞれの太郎に対する態度、太郎との接し方、太郎に対する好意度、太郎について抱いている先入観が異なるためだ。

 かくのごとく、他人の性格をできるだけ真実に近い姿で理解することは非常に難しい問題ではあるが、まずは、『強気と勝気と弱気』と『体格に基づく性格分類』で述べた人間の性格、特に性格の類型について基礎的な知識を持つことが大切である。

 人間それぞれの性格の現れは多様であっても、基本的な類型についての知識があれば、これをもとにして目の前にいる人の性格を知る手掛かりをつかむことができるというものだ。

 次には、他の人間の性格を客観的、正確に評価したり、判断したりするために留意しなければならない基礎的なことを何点か挙げてみるので、それらを参考にしていただきたい。

 第一は、光背効果を考慮すること。光背効果というのは後光効果ともいわれ、仏像を拝む時、その体から差す光に幻惑されて、まともに実像を見られなくなってしまうことに基づいている。

 我々はある人間の、ある一つのことについて、よい印象とか悪い感じを受けると、そのこととは本来、関係のない特徴までよく評価してしまったり、悪く見てしまったりしがちである。

 具体的にいうと、顔立ちの整った人はいい人のように思われやすいし、おとなしく、静かな子供は勉強のよくできる子と思われやすい。

 もともと、容姿の美しさと人柄のよさは別々の特徴であり、おとなしいことと学業成績がよいこともあまり相関関係の高いことではない。

 このようなことは誰でも一応知っているだろうが、実際にはしばしば、無意識のうちに判断がゆがめられてしまうのだ。

 光背効果は日常よく見られる現象であり、「彼は財界の有力者の息子だから信用できるはず」、「高学歴で社会的な肩書きのある人物だから大丈夫」、「誰それは金持ちだから、うそはつかないだろう」などというのも、惑わされやすい一つの例である。有力者の息子、いわゆる二代目などには、甘やかされて育つために世間知らずな人物が往々にしているから、注意を要す。

 光背効果というのをすべて除去するのは至難の業であっても、この効果のために他人の性格の把握が時に、非常にずれてしまうことがあるので留意していただきたい。

●人物評価を誤らせる見せ掛けの性格
 第二の点は、性格の評価にあたって、どんな状況のもとで人間観察をしたかということを、忘れてはならないということ。

 人間の行動は、その時と場合によって強く影響され、規定される。うれしいことがあると開放的に、多弁になる。悲しいことがあると神妙に、沈黙しがちである。

 従って、教師に注意され、しょんぼりしている時の子供の姿を見て、「この子は無口で、おとなしい」と判断してしまい、運動場での腕白ぶりを見なければ、誤った判断をしてしまう恐れがある。

 第三は、その人間の性格を観察したのは、その人間とどんな関係にある人かということだ。同じ甲野太郎の性格を同じ時に、数人の人が観察しても、その評価や判断が一致することはまれである。他人の性格評価にあたっては、評価する人自身の好みや体験が関与してくる。

 一般的にいえば、自分と同系統の性格については細かく分化した評価ができるのに対して、自分と一致しない性格特徴については評価が大雑把になりやすい。また、他人の性格をどの程度理解できるかということに関しては、人による違いが大きい。

 世の中には、人間全体をいつも善意で見て、他人の気持ちを信ずることのできる人と、常に相手の心の裏を考えずにはいられないような人とがある。

 幸福な幼年時代から少年時代を過ごした人の中には前者のタイプが多く、逆境に育った人の中には往々にして、後者の傾向を示す人が見受けられる。

 他人をどう見るかという点には、その当人の経験、並びに、それらの経験を通して形成された人間観が関与しているわけだ。

 留意点の第四は、人間は見せ掛けの、仮面としての性格を持っているということである。幼い子供というものは、彼らの欲望や感情の赴くままに振る舞う。遠慮というものもないし「こうすると、どのように思われるだろうか」という対人配慮もない。

 しかし、青年期に達して自分を対象として眺めることができ、他人との比較において自分を相対的に見るようになると、「自らが他人にどんな印象を与えるか」ということが、よく考えられるようになる。

 そして、本来の自分の性格とは違ったものを、あたかも本来の性格であるかのように見せ掛けることができるようになる。この過程は、いつも意図的に、作為的になされるとは限らない。全く無意識のうちになされることもある。

 例えば、「自分は憶病だ」と自覚している青年は世の中に大勢いるだろうが、その彼も若い女性に対しては、勇気のある男らしく振る舞おうとすることだろう。虚勢を張るという現象である。

 過敏で、内向的で神経質なサラリーマンが、「心の内側を他人に知られたくない」と考えて、豪放で、無頓着な人間のように見せ掛けることもある。

 このような人間に対する時、直観的にその人間の真の性格を見抜くことのできる人と、表面に現れた仮面を真実の姿と思い込んでしまう人とがいる。

 一方では、見せ掛けの姿を演技してみせるのがうまい人間もいるし、すぐに矛盾が露呈してしまう人間もいる。

 また、いつでも地金のままで悠々と世渡りをする人間もいれば、場所や相手によって目まぐるしく演技をする人間もいる。

 見せ掛けの、仮面としての性格は年齢を増すごとに複雑になり、これにうれしくもないのにうれしそうな素振りをみせるような、社交儀礼としての表情が加味されると、その人物の本当の性格、真の姿がどんなものであるかを判定するのがいよいよ困難となる。

●性格判断は、いうはやすく行うは難し
 人間は初対面の人に会った時、まず相手の表情から性格、人柄を判断しがちである。「信頼できそうな男」、「心の優しそうな女」、「怖そうな人」といった人物評価を、無意識のうちにやっているのである。

 しかし、仮面としての性格、愛想笑いなどの社交儀礼としての表情が加味されている場合もあり、人間の性格や心というものは、えてして表情、容貌、顔付きとは無縁なところにあることもある。見掛けだけで相手の性格までを判別すると、間違うことも少なからずあるのも事実なのだ。

 あるいは、相手の表情から感じ取った第一感が正しくて、鋭く本当の性格まで判別していたのに、二度、三度と見ているうちに、自己意識が「ああのこうの」と、へ理屈を加え、自己流の間違った人物解釈に陥る場合もある。

 人間が相手の顔を見て、好悪の先入観を勝手に抱くのはなぜか。

 最近の脳や心理学の研究によると、乳児期の母親の顔付きと感情表現が、その鋳型になるようだ。大脳に刻まれた先入観の鋳型に捕らわれないで、相手の性格や人柄、心や考えを正しく理解するには、どうすればよいだろうか。

 大事なポイントが二つある。

 第一は、話してみること、つまり聞くということである。第二は、それぞれに喜怒哀楽の感情を顔に出す表情を、見せ掛けか否かよく見ること。「そんなことは当たり前だ」といってしまえば、それまでのことだが、いうはやすく行うは難しである。

 なぜなら、本来の人間は五官で見たり、聞いたりして、相手を見抜き、物事を知るという力が備わっているのに、現代の人間は五官さえ正しく働いていないことが多く、皆いい加減な心に左右され、判断を誤るからである。

 同じ意味で、見掛けの美人に対しては、先に説明した光背効果に幻惑されてしまって、評価がずれてしまうことが多いので、特に若い人に注意を促しておく。

 美というと、すぐ姿、形の美しさを連想するだろうが、真の美というものは、根に支えられたもの、精神に支えられたものでなくてはならない。

 美しい花に、よい実はならぬ。美婦は不祥の器。美しい女は縁起がよくない。「災いや不幸を招くもとだ」というのも、すべて根のない姿、形だけの美に捕らわれるせいだ。

 「美と愚は好一対」といって、とかく美人には愚か者が多い。外見だけの美に心を奪われるのは、危険千万だ。「はなはだ美なれば、はなはだ悪あり」ということである。

 絵を見ると、そのあたりの理がよくわかるだろう。何とか美しく、うまく描こうとしたら、すなわち、意識を働かせ、意識で描こうとしたら、その絵はもう堕落である。一見、「美しいな、うまいな」と思っても、すぐに見飽きてしまう。精神がないし、見る者に対して訴えるものも、力もないからだ。

 この点、与謝野鉄幹の詩を口ずさむ者は、「妻を選ばば才たけて、みめうるわしく」、そこで終わっているのではなかろうか。下の句の「情けあれ」を見逃している若者が多い、と思わないだろうか。

 美人で頭がいい。これは外観で、少し付き合えばすぐわかる。だが、「情けあれ」は内容だから、ちょっとやそっとでは、なかなかわからないものだ。

 目下恋愛中などと、熱ボケしている段階では、お互いによく見せようと、猫をかぶっているから、相手の真実の姿などわかりっこない。

 「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」で、情け心は真理に通ずる心だ。そういう心根を持った女性こそが、本当の利口者として、家庭を支えていくことができる。


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